■織田家の系図
織田信長は先祖をたどると平氏につながるというが、疑問視もされている。
織田家の系図は『織田系図』(『続群書類従』第六輯・上)、『系図纂要』などが伝わっており、それらの系図では織田家の先祖が平資盛(すけもり。重盛の次男)になっている。
元暦2年(1185)の壇ノ浦の戦い(最後の源平合戦)において、資盛は亡くなった。資盛には寵妾がおり、親真(ちかまさ)という子がいた。親真は母とともに近江津田郷(滋賀県近江八幡市)に逃れ、母は豪族と結婚した。
あるとき、越前織田荘(福井県越前町)の神官が親真のもとを訪れ、養子としてもらい受けた。その後、親真は神職を継ぎ、織田家の祖となったというのだ。親真は資盛の正室ではなく、寵妾の子であるというのがポイントである。
のちに織田家が越前や尾張などの守護・斯波氏に仕え、守護代を務めたのだから、話の辻褄は合う。信長は、親真の17代目の子孫であると言われている。
■記録にも書かれた織田家の子孫
僧侶の兎庵(とあん)が記録した『美濃路紀行』には、天正元年(1573)9月に岐阜を訪れた記録がある。そこには信長の家系について、「平重盛の次男(資盛)の後胤(子孫)」と書かれている。
この記述内容から、信長が隆盛を極めつつあった同時代においても、織田家の祖が平資盛だったという認識が認められる。これは、信長が意図的に流したものなのか否か、今となってはわかっていない。
しかし、信長が15代将軍足利義昭を追放した天正元(1573)年頃には、信長が先祖を平氏としていたことが『美濃路紀行』という兎庵(とあん)という老僧の旅の記録で示されている。
平氏を祖先とした背景には、信長が源平交替思想を取り入れたかったということらしい。つまり、源氏である足利氏(=将軍義昭)に代わる者は平氏(=織田氏)であると、世に示したかったのだ。
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