鴨長明海道記 写本 簡易製本(紙縒り綴じ)
25×17.4㎝
全 18丁 [墨付けは18丁表まで] (18丁目は裏表紙兼用)
*****************************************************************
1丁表冒頭に
鴨長明海道記 上下二巻 跋は道春ノ作也
源親行道記ニハ非ス
貞應二(1223)年夘月の上旬都を出て
あはた口の堀路を南に・・・・・・。
とあり、『群書類従』の書き出しと全く違って、身の上をはかなんでいる部分(序)は無く、旅の初め「都を出て粟田口」からスタートしている。
出品した本の本文「あはた口」は『群書類従』では「序」が終わった辺りにある。
今便人の芳に乘じて俄に獨身の遠行を企り。貞應後堀河二年 卯月の上旬五更に都を出で一期に旅立。昨日はすみわびていと はしかりし宿なれども今立わかるれば名殘おしく覺えてしばし やすらへども。鐘のこゑ明行はあへずして。いつまたあはた口の堀道を南にかいたをりてあふ坂山にかゝれば。
~~『群書類従』本文~~
以下、83首(数え違いがあるかも知れない)の歌が、まるで歌物語のように「詞書き」+「和歌」という感じで並んでいる。勿論、本来の『海道記』の本文は極端に省略、改編されている。
つまり、『群書類従』の本文に比べて分量が少なかったのは、これがためだった。誰がこんなことをしたのか知るよしも無いが、『海道記』のダイジェスト版を作ろうとしたのだと思われる。その手法を「歌物語」に倣ったのは、彼の手柄と言うべきだろう。
【因みに】『群書類従』と本品の歌は、部分的に異同はあるものの、数も並びも全く同じ。
*******************************************************************
26丁表 から、違う手で、何故か「和歌」が57首記されている。
作者は「壬生忠峯」「摂政太政大臣」「前関白」「紀貫之」「土御門院」「源俊賴朝臣」「後鳥羽院宮内卿」「源三位頼政」などそうそうたるメンバー。「人麿」「定家」「西行」の名も見える。
前半は何故か「送り仮名」が「片仮名」で記されている。
******************************************************************
【参考】〈ウィキペディア日本語版「海道記」より。〉
『海道記』は、貞応二年(1223年)成立と考えられる紀行文。承久の乱の後の貞応二年四月、白河の侘士を名乗る隠者が京都から鎌倉に下り、帰京するまでを描く。『東関紀行』、『十六夜日記』と並ぶ中世三大紀行文のうちの一つ。作者未詳。群書類従本では源光行を作者とする。
海道記《冒頭・群書類従から》
源光行
白河の渡り中山の麓に閑素幽栖の侘士あり。性器に底なければ。能をひろひ藝をいるゝにたまるべからず。身運は本より薄ければ。報ひをはぢ命をかへりみて。うらみをかさぬるに所なし。徒に貪泉の蝦蟇となりて。身を藻によせてちからなきねをのみなき。むなしく窮谷の埋木として意樹に花たえたり。惜からぬ命のさすがに惜ければ。・・・・・
【注】→「性器」は「性、器(うつわ)」。つまり、「自分の性質は底の無いうつわのようで」つまり「無芸(大食)」と言う事か。全体的に自分の不幸な身の上を嘆いている・・・・。
***********************************************************
※全体的に、経年によるくすみ、汚れあり。
※経年による紙の劣化、変色、斑点状の染み、虫喰いあり。
※梱包材の再利用に努めています。ご理解下さい。