1960年代に京都府でレーシングカー・コンストラクター「マクランサ」を営んでいた林みのるがスポーツカー製造計画を立ち上げ、
1975年に林の自宅で開発プロジェクトがスタートした。林の従兄弟である林将一が経営するハヤシレーシングの
ホイール商品がヒットしたことから、プロジェクトの準備資金が投資された。
当時のレース界は海外製マシンの寡占により国産コンストラクターの多くが挫折し始めていた時期だったため、
日本のレース界を代表するメンバーが参加した。ボディデザインは林みのると由良拓也(ムーンクラフト代表)、
モノコックは三村健治(現エムアイエムデザイン代表)、サスペンションは小野昌朗(現東京アールアンドデー代表)が設計を担当した。
(三村と小野はマキやコジマのF1プロジェクトを経て合流)。
1976年頃からスタイリングの研究が始められたが、このころから作業の中心は大阪府のハヤシレーシングの工場に移った。
集まったスタッフは大阪の工場街にアパートを借りるも、家に帰るのは風呂に入りに帰る時のみというようなハードスケジュールで開発を進め、
開発を開始した当初は4人いた既婚者全員が妻に逃げられたという。
ボディの加工作業では、FRP特有の臭いをガス漏れと勘違いされ、近隣が一騒動になった。
製作開始から1年3ヶ月ほどをかけ、1978年初頭に試作車(プロトタイプ)童夢-零が完成し、林みのるが代表を務める童夢が設立された。
ショーデビューの反響
1978年3月、スイスで行なわれた第48回ジュネーヴ・モーターショーで零が初公開された。
当初、展示場所は会場の片隅だったが、メディア公開日における反響が大きく、主催者の計らいで会場の目抜き通りにスペースが与えられた。
日本の無名のメーカーが産み出した処女作は注目を集め、市販価格も発表していない段階で、ブルネイ王室や
アクションスターのジャッキー・チェン、メジャーリーグ選手のレジー・ジャクソンなどから20件近い予約オーダーが寄せられた。
市販化計画
当時スーパーカーブームは下火になりつつあったが、自動車排出ガス規制が厳しかったため、零の登場は大いに話題となった。
零はロータスエスプリをはじめとする、操作性に優れ俊敏に走る中型スーパーカークラスの性能で、価格も1,000万円程度を想定していた。
ジュネーブ・ショー発表後、国内の型式認定を取得するためにさまざまなテスト走行が繰り返された。
しかし、国内での型式認定取得を前提に法規に合わせて製作されていたにもかかわらず、管轄の運輸省(現国土交通省)は
許可どころか、申請さえ受け付けなかった。そのため、アメリアで認定を取得すべく「DOME USA」を設立し、
アメリカの法規に準じた仕様の追加試作車童夢P-2を開発することになった。
関連ビジネスとプロジェクトの終焉
市販化が難航する一方、零の反響は童夢に思わぬ副収入をもたらした。関連商品が大ヒットしたため、
プラモデルやラジコン模型自動車からスーパーカー消しゴムに至るまで200種類もの商品化申請が寄せられ、
現在の貨幣価値で10億円ほどのロイヤリティ収入があったという。これを元手に、童夢は京都府内に本社施設を構えた。
玩具メーカーは二匹目のドジョウを狙い、童夢へ新型車を作って欲しいとリクエストした。
林代表は「次もスポーツカーではインパクトがない。レーシングカーにしよう」と逆提案し、憧れのル・マン24時間レースへの参戦を宣言、
ロイヤリティーの前払いを受け、全社を挙げてフォード
・コスワース・DFVエンジンを搭載したプロトタイプレーシングカー
童夢-零RLフォードの製作に取り掛かり、1979年
のル・マン24時間レースに参戦した。
その結果、P-2の開発は置き忘れられ、市販化計画は立ち消えになった。
零
童夢の名を売り出すインパクトを狙って「世界一全高が低いクルマ」というコンセプトを掲げた。
当時アメリカに全高1,000mmの車があると聞き、それを下回る980mmに設定した。平面的なウェッジシェイプ(くさび形)
ボディを特徴とするが、完成車は室内が非常に狭くなり、身長175cm程度がまともに乗車できる限界となってしまった。
シャシーは複雑な形状を持つスチール・モノコック、サスペンションは前後ともダブルウィッシュボーン+コイル、
ブレーキはガーリング製で、フロントがベンチレーテッド・ディスク、リアはインボードタイプのソリッド・ディスクを採用した。
足回りは、ピースのアロイホイールにピレリP6という組み合わせだが、フロントが185/60VR13、リアは255/55VR14と、 前後でかなりサイズが異なった。
エンジンは2.8Lの日産L28型水冷直列6気筒SOHCエンジンをミッドに縦置き搭載し、ZF製5速MTが組み合わされた。
このエンジンはサイズが大きく重量も重かったが、国産技術にこだわっていたため、他に選択の余地がなかったという。
ボディパネルは軽量なFRP製。ヘッドライトはリトラクタブルヘッドライト。ドアはガルウィングドアだが、
ポップアップ式である。サイドウインドウははめ殺しだが、ドアのアクリルがスライドをすることにより開閉が可能となっており、
高速道路などの料金所ではここが使用される。ラジエターの熱気を逃がすためにボンネットにはダクトが開けられている。
ドア後方にあるインテークは、エンジンルームの冷却用で、左側2つ、右側1つとなっている。
テールランプは専用のもの。室内は直線を基本に設計されている。ステアリングホイールは革巻きだが、
逆V字型スポーク下側部分のみプラスチック。メーターは国産車初のデジタル表示で、ドライバーの手の動きを赤外線センサーで感知して
ウィンカーが点滅するなど、近未来的なイメージとなっている。
室内にバックミラーはなく、ビタローニ製のサイドミラーでしか確認できない。
零はショーモデルの1台のみが製作された。エンジンが故障しているが、2006年時点では米原氏にある童夢の風洞施設
「風流舎」内の倉庫に保管されていたほか、2016年5月には童夢の新しい本社社屋に移され、エントランスホールで展示されている。